子育てはしていないし、年齢も低く、むしろまだ育てられているようなものなのに。

と、疑問を抱いた方もいらっしゃると思うので、記事にしておこうと思います。



理由としては単純です。
育児をされている方々のブログからは、当事者ブログよりも自分に必要だと思われる客観的に近い示唆や情報を多く受け取れるからです。
加えて、自分にとって当事者ブログには近すぎるがゆえの問題点があるからです。強く共感し過ぎて自分に支障が出るほど揺さぶられたり、色々。



でも、これだと受け取っているだけになってしまう。
私も、何かお返しできていると良いのですが。。

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# by pronaos | 2017-05-08 17:14 | Comments(1)

刺激に対する依存の傾向

あまり褒められたことではない話、この傾向があります。
正確に言えば、自分の感情・論理性を熟慮を必要とせず呼び起こすような刺激に対して依存の傾向があります。

<例>
感情 : 家庭のいざこざをまとめたまとめサイト
論理性 : 出典、先行研究、文献を踏まえない議論

これらの刺激に溺れて夜布団の中でどうしてもスマートフォンの画面から離れられず軽く泣きながら朝になる(今思い出すとあれは底つき体験)という病的な事態は経験しています。奇妙な渇望。
何もすることがないのに相当な頻度でスマートフォンを手に取って刺激に指が走ってしまうという状態は継続中です。

でも、これらに溺れない熟慮を必要とする生活が嫌いかというと、そうでもない。むしろ私はそういう生活がしたい。

この2つを例えるならば、たとえがたとえられるものと近すぎる気もするけれど、週刊誌と純文学です。スナック菓子と手のかかった家庭料理でもいいかもしれない。



人生の中に週刊誌とスナック菓子が必要になることもあると思うんですよね。
社会的なものやインフォーマルとされるものに対する感度が低く、かつ当事者性のある物語にそういう知識が組み込まれていないと自分に引き寄せられない私は、ああいうサイトからこれから生きていく上で必要であろうたくさんのものを得ました。あれらの情報をああいう場所以外で効率良く入手する方法は正直思いつきません。

でも、サイト内の情報やそのパターンをある程度理解できてきてもうそろそろ読まなくてもいいだろうという段階に来ても刺激に引かれて読んでしまい時間を無駄にする、つまり自分にとって損であり大きな目で見れば苦痛でしかないことをやめられないのが自分の中で相当問題になってきたので、やめます。決意の書き込み。
ある程度断続的にやめる試みはしてきましたが、脳内の回路や物質がどうなっているのか不思議なことに、まだ少しでも触れるとあっちに走って行ってしまいます。一旦は完全に刺激を断つしかない。







自らがこういう状況に陥ってもなお、相手を言語によらず納得させずに行使されるあらゆる場面でのパターナリスティックな権力を自分が忌避しているのは、我ながら面白いと思います。
害を他者に与えていない限り(これは定義が難しいですが)パターナリズムを認めない。与えていたとしても、最低限度に留める。未成年相手だったとしても、認知に障害がある人相手だったとしても。
自分の思想的な核はそこにあるのかな。




『フランス人は10着しか服を持たない パリで学んだ"暮らしの質"を高める秘訣』(ジェニファー・L・スコット)
買ったのは少し前ですが、今の私には良著でした。
自分という人間にとって(そうでない人間を否定しない)、自分の感情・論理性を熟慮を必要とせず呼び起こすような刺激はlife(この単語は、英語のニュアンスのほうが言いたいことを言ってくれる気がする)の質を下げることはわかった。今だけではなく、ずっとそうなのだろう。

暮らしの質を高めていこう。

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# by pronaos | 2017-05-07 03:31 | その他 | Comments(4)

あーちゃんママさんのこちらの記事
http://mathdragon.exblog.jp/23749646/

"こうして改めて読んでみると、(日本語では)何やら小難しい感じでわかり難い。(汗)なんでだろう? 
もし日本の大学で心理学を勉強しなければならなかったら、とてもじゃないけど、私は授業についていけないだろうなぁ。
余談ですが、これはいつも思うことなのですが、私はなぜか英語の文章の方がストレートに頭に入ってきて、日本語よりも理解しやすく感じます。"


について、思うところがあったので、私も書いてみようと思う(あーちゃんママさん、改行のみ改変の上で引用させていただきました><いつも面白いトピックをありがとうございます!)。


ほとんど英語ができない私も、学術関係の文章ではあーちゃんママさんが仰っているものとおそらく似た感覚を覚えたことがある。
これは私の場合だけれど、学術場面では、まずはテクニカルタームの日本語翻訳のまずさ故にこれに陥っている時があるのではないかと推測している。
明治時代〜現代にかけて新しい専門用語や専門用語に付随する動詞がたくさん輸入され、各語に訳語がつけられた。当然、その中には名翻訳もあれば迷翻訳もある。
結果、ことばをニュアンスとして解する傾向が強い人には、むしろ惑わすものとなる…という想像。英語は語の本来のニュアンスの中で読んでいけるし、そうでなくとも私は今のところ細かいニュアンスを英語では日本語ほど感じ取れない(ごめんなさい盛りました。ほぼほぼ感じ取れない)ので逆に言葉の形、骨組みのみがダイレクトに伝わってくる。
あと、これに関連して、日本語は膠着語なので一語一語が滑っていきやすい上に熟語の中に大量の意味を詰め込みたがるのに対し(私の文章が当にそうだ…)、英語はそれぞれの単語が明確に分かれていて文法も楽だししかも日本語よりは各単語の速度に緩急がないというのはかなり大きいように思える。きょうだいが教えてくれたが、日本語の下手な歌の詞は和語/漢語/カタカナのスピード感(情報量の多寡)の扱いがなっていないらしい。

でもこれではまだ説明できない領域があるんだよなあ…。「お手洗いどこ?」を日本語より英語で言うほうが直接的に思えるのは何故なのか。どんなに丁寧で礼儀正しい英語であったとしても。私が日本語に馴染みすぎているからか?
今度知り合いと話してみようかな。








そういえば、私は、昔から英語に相当手こずりながらも、日本語は絶対に科学技術分野のグローバルスタンダードになるべきではないと思っている。英語が大変なときは、英語が母国語ならある意味楽だったのだが…とたまに思うが、スタンダードを日本語にとは今はもう考えない。
一応書いておくと、もちろん日本語を貶しているわけではない。むしろ私にとって日本語を繰るのは面白い。日本語の性質の話。





さらにそういえば、心理学分野は特に日本語翻訳がまずい言葉が多い気がしています……。
一番馴染めないのが筆頭格のはずのcognitionって単語。認知って…認知って……。わかんない……。

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# by pronaos | 2017-03-28 02:31 | その他 | Comments(5)

私は某古都の大学に通っている。iPSで一時期有名だったところ。


校風は自由だ。自由らしい。ともかく自由を謳っている。(幾つかの部分を除けば。これは今回の記事には関係ないので省略)

そのせいか、高校までに比べて圧倒的に生きやすい。
素直な欲求を世界の中で素直に認められることは、ストレスを生まない。



大学では、私の人生で初めて、信じるものや考えることがあまりに明示的に私と異なる多様な人々にすれ違った。以下に、わかりやすい例だけあげてみる。
全身ヴェールを被ったおそらくイスラム教徒の研究員。
新興宗教に分類される宗教を信じ、そしてその中で悩む人。
おそらく極左に分類される某思想を持つ人々。この間バリスト(バリケードを使ったストライキ)を行って停学処分を食らっていた。バリストやセクトなんて60年代学生運動全盛時代の言葉、私、この大学に入っていなければ知ることはなかっただろう…。



その中では、否応なく自分の思想が問われる。自分の信ずるところが、自分の心の中で問われる。
ある思想を根拠なく礼賛することの危うさ、未熟さを私は大学になって本当の意味で初めて受け入れた。非常に遅かった。


























そういえば、昔から自分の中にはある種の無批判な信仰性と神秘性に対する憧れがあったのか、呪術に分類される何やらかんやらに小学生でどっぷりはまったこともある。陰陽道や修験道関連の本を楽しく読んでいる小学生だった。民俗学ちっくなものも好きだった。別に後悔はしていないし、呪術の実践もしていないし、自分の世界はこういう世界を知ることで確実に豊かになったが、今思うと父母は心配しなかったのだろうか。
呪術の本を傍らに日経新聞も楽しく毎日読む日々だったが、無批判な信仰性という点では大差なかったんだよなあ。
近代のサイエンスより呪術に人生の中で先にはまったことに自分という人間を感じる。

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# by pronaos | 2017-02-27 23:48 | その他 | Comments(2)

ナチスの強制収容所で死亡した音楽家たちが作った歌や楽曲を発掘してきたイタリア人指揮者のフランチェスコ。遺族や収容所跡を訪ね、死を目前に音楽に託した想いを蘇らせる。

14万以上のユダヤ人が送り込まれたチェコのテレジン収容所では、多くの音楽家が犠牲となった。凍てつく寒さの中、命の灯火が消えるまで曲を書き続けた作曲家もいる。またスロバキアでは、収容所での過酷な日々や家族への思いが代々歌い継がれている。フランチェスコは死と隣り合わせの極限状態の中で生まれた美しい楽曲を収集してきた。その音楽を演奏することで、曲に込められた音楽家たちの想い、平和への願いを現代に伝える。

原題:THE MAESTRO in search of the last music制作:Intutition Films & Docs/Les Bon Clients(フランス 2016年)


[初回放送]
2017年2月21日(火)午後11時00分~

[再放送]
2017年3月22日(水)午後5時00分~


NHKBS公式サイトより
http://www6.nhk.or.jp/wdoc/sp/backnumber/detail/index.html?pid=170221


イスラエル大使館もツイートしている。
https://twitter.com/israelinjapan/status/833934514296459264







ナチスの収容所も、アメリカの日系人収容所も、日本の捕虜収容所も取り上げている。


ナチスの収容所の、死人の皮を剥いで加工するための部屋で書かれた曲が存在する事実に人の尊厳を思う。
何かを語るとき、悲惨の淵を忘れてはいけない。幸いにも、幸いではないが、過去の/体験者の、映像/写真/音声が残っている、100年ほど前から今に至るまでは、少なくとも直視しよう。




悲惨に震えるこの感情が普遍的なものか。この感情は正義の根幹となりうるものか。この感情を根底にした議論の正当性は何か。
私は認知心理学にそれを問いたかった。

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# by pronaos | 2017-02-21 23:17 | その他 | Comments(0)